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Toshirou HONDA



善光寺

        古文書紹介
本多敏良、“としろう”と読みます。かなり古くは「良」を「ろう」と読んだようです。奈良時代の初代東大寺管主が「良弁−ろうべん」と言われております。だからその時代には「ろう」と読まれていたことになります。1948年、能登半島の付け根「羽咋市」にて生まれました。
Top Page のマークは代々我が家に伝わる家紋「立葵」です。この家紋もかなり古いもので、飛鳥時代に本田善光-よしみつ(古くは“本田”と書いたようです)が最初に使用したと思われます。本田善光とは、その名前の通り「善光寺」の開祖です。したがって善光寺の寺紋もこの「立葵」です。
 平安中期、関白太政大臣・藤原兼通(かねみち)の長男・藤原顕光(あきみつ)の曾孫である二条家綱(いえつな)の曾孫・右馬允秀豊(うまのじょうひでとよ)が本多の名跡を継いで「立葵」を用いたらしい。それから12代目の助秀が豊後の国(現在の国東半島・本多の庄)に下り住んでいたが、足利尊氏が戦いに敗れ九州に落ち延びて時を待ち、再度京に攻め上るときに足利軍に従軍。その後、足利尊氏に仕え助秀の子・助定は尾張国の横根・粟飯原の両郷を領し、その孫に至って長男定通、二男定正の二家に分かれた。両家とも、のちに三河に出て松平家(後の徳川家)に仕え、定通系から平八郎忠勝(徳川四天王の1人)が、定正系から弥八郎正信(家康の知恵袋)が現れる。弥八郎正信の長男・本多正純は怪事件「釣り天井」で宇都宮15万石を没収され、兼通流本多氏定正系は断絶。しかし弥八郎正信の二男・政重(一時、直江兼続の養子となっていた)は、加賀前田家の筆頭家老として生き抜いた。政重の子・政長(2代)の二男・政則が分家して本多伊織家(8.000石)を、三男・政冬が分家して本多図書家(11.000石)を、五男・政寛が父・政長の隠居料3000石を相続して分家となる。それが後の本多主水家(もんど)である。また、家紋の枠は代々「○」でしたが政長が長男・政敏(まさはる)に家督を譲って隠居したおり、加賀前田家五代藩主綱紀より、「隅切り角(すみきりかく)」の紋枠を拝領し、隠居紋として現在の「隅切り角の中に立葵」という家紋を使用するようになり、主水家はそれを現在まで受け継いできました。主水家四代・政基に子がなく、加賀本多家直系の九代・政和の六男・政養(まさやす)が政基の養子となり主水家五代を継いだ。政養には長男・将知(まさとも)と次男・政芳の2人の子がおりましたが、将知が側室の子故に、次男・政芳が主水家の家督を継いだ。のちに将知が本多家の知領としていた兵庫村(現在は羽咋市兵庫)に移り住み、これが現在の羽咋系本多家です。定正系は代々「正」の文字を戴いて継ながれてきましたが、加賀に移って以来「政」の文字を戴いて継ながれてきました。しかし分家の分家にはその文字の使用が許されることはなく、羽咋系本多は「将」の文字を戴いて継いでおります。祖父は将次、父は将秀、兄は将志、甥は将修。私は三男ですので「将」の文字の使用は見送られましたが、兄将志の死去にともない「将」の文字を戴き「将但(まさただ)」と改名し名籍を継ぐことになりました。
したがって私のルーツを探ってさかのぼると「藤原鎌足」に行き着いてしまい、名跡は善光寺に至りました。昔ならば「藤原の朝臣、本多の敏良将但」となるわけで良き家柄とも言えるでしょうが、いかんせん「育ち」が悪かったものと反省いたしております。善光寺には何度も参拝に訪れておりますが、なにかのおりに大分県国東半島の「本多の庄」を訪ねてみたいと思っております。

元善光寺 平安中期〜江戸初期の家系図  藤原北家 本多氏 本多系図


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